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以下は私見であり、たぶん極論だ。
[2008.04.07] [sawa 近況報告]
今日、川辺を歩きながら思ったこと。
身の回りにある、まるでゴミのような素材で、
かなりいいかげんに作った人形、というかヒトガタを、
何となくはずんでいるように動かしてみる。
それでも見ている人間はそこに生命感を感じる。
生きて、踊っているように、歩いているように見える、というか、
見えてしまうように人間の脳はできている。
これは目が(正しくは脳が)動体を感知して、そのさまざまな違いを、
分析、記憶してきた幼少からのひじょうに高い認識能力のためだ。
例えばヒトが歩いている動き、犬が走っている動き、
そしてこれが鳥が飛んでいる動き、といったぐあいに分類されている。
はっきりいって「雑な」人形の動きでも、脳はそのエレメントをつなぎ、
修正し、分類、認識しているわけだ。
かなりハイレヴェルな抽象化作業と言える。
実際に生命を持っていないオブジェクトが動くのを見て、
人間がなぜか楽しく、ときに不気味に感じてしまうのは、
この抽象化能力を最大限に発揮できる対象であることから起こる
快感に基づくと考えられる。
この「動くモノ」に対する分類データのストックは、
当然、人間が年齢を重ねるほど増え、認識をサポートし、
分類を容易にしてゆく。
「あ、これはあのときに見たあの種類の動きの亜種パターンだ」
と脳が判断するわけだ。
おそらくこの能力は、天敵の動きを瞬時に感知し、逃げる、
というもっとも重要な生命維持活動に起因しているはずだ。
したがって、これが子どもの場合、
蓄積するべきデータを、日々まさに集めている最中なわけで、
人形やモノの動きに対して、ひじょうに興味を示し、喚声を上げることになる。
人形劇という分野が、多くの国で「こどものための文化」と考えられてしまうのは、
このことと関係がある。
わかりやすく言うと、おおざっぱな人形劇でも、こどもは喜んでしまう、
あるいは喜んでいるように見えるはずなのだ。
上演中、子どもの脳は、新種の動きを見て驚き、
自分がすでに知っている動きを再認識し、フィードバックし、
蓄積の快感を得る、という交換の繰り返しで加熱しているはず。
脳が生き残るために必要なデータを必死に集めているのだから。
では、子どもたちがぬいぐるみやお人形に、強い関心を示すのも、
この能力と関係があるのだろうか?あるいは別の脳活動なのか?
また、大人が人形劇に強い関心を示さないのは、
動体データの収集が完了しているからなのか、他の理由があるのか?
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2008.04.07 / 23:05
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