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芸術大学の演劇教育(後編)

[2009.10.27] [「児童演劇」原稿]

児童演劇2005.11月号原稿

大学での仕事について続きを。

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グループワークを主体にカリキュラムを進めると、やがて学生たちは各々の内面を
反映させられる課題や、詳細な表現技術を個人的に求めるレベルに到達する。

そこで今年、二年生の授業でかなり危険とも思える、
しかし一度はやってみたかったプログラムを試している。

まず、ひとりひとりに紙を配り、今、あるいは今までの人生でもっとも大きな問題、
つらかった悩みを、無記名で書いてもらう。

それらを大きなポリバケツに集め、シャッフルした上で各人がくじ引きのように選び取る。
そして内容を読み上げる(日本のプロ野球のドラフトを思い出してみて欲しい。
ただし、紙を手にした者の表情は、球団監督のそれよりかなり暗く、笑顔も深い)。

とてもプライヴェイトな内容なので、ここで詳しく書くわけにはいかないが、
家族のこと、自分のこと、性のこと、人間関係などなど、十一人分の内容を
読み上げたときには、全員がグッタリしてしまった。

彼らの課題は、自分が手にした誰かの「大問題」をモチーフに、一人芝居を作ることなのだ。

この学年は入学当初からとても明るく、協調性も高かった。
今回驚いたのは「自分はとても孤独だ、自分には一生友だちはできないような気がする」
といった内容がいくつもあったことで、青年期の典型的な自意識であるとともに、
人の心の深みに分け入って、それを表現できる一流の役者となるためには、
絶好の訓練チャンス。

家族関係に深い問題を抱えるケースにあたってしまったある学生は、
今、以下のようなスケッチ稽古を繰り返している。

そっと食卓の上に粘土を置き、それをゆっくりこね始める。
やがて粘土でもうひとつの食卓ができあがり、父が、母が、
そして本人である息子が練り上げられる。

さらに食卓の上には粘土の食器や夕食が並び、三人は夕餉を始める。
やがて父親の粘土人形がけいれんし、おおきく膨らみだし、食卓全部におおいかぶさる。
母と息子はもがきながら巻き込まれる。
混乱の後、再び素材としての粘土に戻る食卓。
それはひとつの顔、悲しい仮面になっている。


都会での集団生活に適応できずに苦しんでいる、というケース。

小さなロウソクが一本、大きなロウソクの集団の中に入り込む。
しかしその光は大勢の中であまりに非力で、輝きを失ってしまう。

逃れた小さなロウソクはみずからカップをかぶり、そのともしびを消してしまう、
あるいは透明なガラスに守られたランプケースの中に入り込み、
火は守られるものの、外の世界の風を感じることはもうない。
その学生はラストシーンをどうするかで試行錯誤中。


そう、扱っているテーマがそれぞれ重いので、表現内容もかなり重い。
しかしすぐれた芸術作品に必ず兼ね備わっているとされる四つの条件=美しさ、
スタイル、統一性、そして軽やかさ。これらを忘れずに創造を続ける必要がある。


もうひとつの受け持ち学年は三年生。
今学期はシェイクピアの「夏の夜の夢」が課題だ。

昨年はチェホフの「桜の園」に挑戦したこのクラス、
古典をきちんとこなせる演技力を身につけようと必死だ。
「桜の園」では人形は一場面だけ一体のみ、「夏の夜の‥」
ではまったく人形が登場しない。
しかし会話の途中、登場人物すべてがふと舞台隅に目をやる、
ああ、見慣れた森の妖精だ、という表情ですぐに会話に戻る、といった演出で、
その世界にあるべき幻を観客の心に想起させるメソッドを取る。
その一瞬の間(ま)こそがこの作品で使われる人形となる。

国立芸大の授業料は基本的にタダ。
つまり国が税金で面倒を見る。

しかし、入れば何とか出られる日本のシステムとは異なり、
ヨーロッパの進級と卒業はかなりたいへんだ。
努力の見られない学生、努力していても到達度を
クリアできない学生は容赦なく切られ、退学となる。

最終学年は、プラハ市内の劇場に丁稚奉公のように出され、現場で揉まれる修行の一年、
あるいは学年から選抜されたアンサンブルで国内外のフェスティヴァルに出まくり、
思いっきりきたえられる、という場合もある。

入学したらすぐにでもプロの現場に照準を合わせていない学生は、業界で使えない。
ただ、今のところ、放っておいても彼らは入学当初から何かしら自主的に創作し、
正規の授業に差し障りがあるからやめろと云われない限り、
小劇場での自主公演を常に繰り返している。
見あげた根性だ。

つづく
「大学の授業風景、影絵をためす学生たち」

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児童演劇 2005年10月号掲載原稿

[2009.10.19] [「児童演劇」原稿]

児童演劇 2005年10月号掲載記事

芸術大学の演劇教育(前編)

プラハには国立表現芸術アカデミーという大学がある。
正式名称はアカデミエ・ムージツキーフ・ウムニェニーと云って、頭文字を取って
通称アムー(AMU)と呼ばれる。ちなみに、絵画や工芸といった造形芸術には
また別のアカデミーが存在する。さて、アムーには映像、音楽、舞台の三学部があり、
それぞれフィルムのエフ(F)をくっつけてファムー(FAMU)、チェコ語で音楽を
意味するフドバのエイチ(H)でハムー(HAMU)、舞台芸術のディヴァドロのディー(D)
からダムー(DAMU)と呼ばれている。

舞台学部ダムーには二つの学科があり、ひとつは一般的な演劇学科、
もうひとつは演劇・人形劇学科とでも呼べば良いのだろうか、
もともと古典的な人形劇から出発しながら、いわゆる「何でもあり」に進化した
現代のフィギュア・シアター専攻の学科である。ぼくはそこで講師として働いている。

この学科には俳優コース、人形・舞台美術コース、脚本・演出コース、
プロデュース・マネージメントコースなどがあり、四〜五年制、その後、
修士や博士課程もある。入学の競争倍率はスゴイ。ぼくが担当している俳優コース一年生は、
二百五十人あまりの受験生から選び抜かれた十一名だった。選抜は個人の実力だけではなく、
そのメンバーでアンサンブルを組んだ場合の集団としてのバランスや可能性を重視する。
一次試験では身体能力や発声、音感、朗読、人形やオブジェクトを遣っての寸劇など、
個人の基礎的資質が試されるが、二次試験では、創作グループとして共同作業する際の
コラボレイション能力が要求される。何人かの俳優志望の受験生に、演出コース、
美術コースからのメンバーも交えて、いくつかの即席劇団を編成し、同一の課題で短い
上演作品を作らせる。そしてそのグループワークの中で、きちんと自分のアイディアを述べ、
集団の中に溶け込ませ、活かしていけるキャラクターと力量が求められる。
つまりいくら演技や音楽的才能に恵まれていても、ひとりよがりで他との協調性が
なければ合格できない仕組みになっているのだ。

「説得力」は必ずしも「饒舌」を意味しない。皆さんも経験から良くお分かりのように、
会議で長ったらしく、大声で発言する人はけっきょく嫌われるのだ。

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ぼくは授業でもよくグループワークをする。

あるとき、発言力の強い押せ押せのメンバーたちに遠慮して、なかなか自分の意見を
云い出せない学生ばかりを集めて別なグループを作り、インプロヴィゼイション
(短時間で即興も交えながら短い作品を創造する作業)を要求したことがあった。

受験を勝ち抜いたとはいっても、穏やかな性格のヤツはどこにでもいるし、
ましてや集団の中のキャラクター、役回りというのは、きわめて柔軟、相対的なもので、
超活発なメンバーを十人集めても、いつのまにかおとなしい人間が二割ぐらいは
できてしまうものだ。

で、目は底光りしているのに、なかなか自分の発想を言葉にできないそいつらを
一度集めてみたいとかねがね思っていた。
ぼくがあらかじめ与えたモノは、一本の懐中電灯と美しい日本の音楽一曲のみ。
テーマは自由。

空に浮かぶ大きな手からこぼれ落ちた光のしずく。
男は自分に落ちてきたそれをウザッタイ、とばかりに蹴り飛ばす。

蹴られた光は別の誰かに拾われ、やがて小銭のように物乞いに与えられる。
それを大切に胸にしまった物乞いは、やがて若い女性と出会い恋に落ちる。
彼らの口づけとともに光の玉は物乞いから女性の身体の中へ移る。
ゆっくりとふくらむ腹部。

やがて新しい命が女性の身体から生まれ出る。
赤ん坊を抱く幸せな母親。

再び空に舞い上がってゆく光の玉。
最初の男があらわれ、その光に気づき、つかまえようとするが、すでに届かない……。

彼らは壁に映る自分たちの身体の影だけを使い、二時間ちょっとでこの作品を創り上げた。
その作業の様子は、熱のこもった怪しい秘密会議のようでもあり、また、
子どもたちが懐中電灯を夢中になって取り合うゲームのようでもあった。

この短編は、やがて学期末の発表会で教授陣の感涙を誘い、
その後いくつかの国際フェスティヴァルで上演されることになる。
創ったときには想像もしない長い命を持った作品になった。

これはけっして指導者としてのぼくの実力ではなく、
彼らの「表現したい」という心の底からの思いが結晶した
素朴な宝石だったのだと思う。

つづく

「演劇・人形劇学科の入学試験」

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みなさん、お元気ですか

[2009.10.08] [sawa 近況報告]

プラハの沢でございます。

モスクワの友人たちがアレンジしているフェスティヴァルは、
アーティスト軍団を(というか、フェスティヴァルまるごとを)
ロシアの深い地方都市に送って、ナマの舞台を観客に提供する、
という企画で、移動はタイヘンなんだけど、毎回ぼくらは燃えます。

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