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ドラマツルグ、って何?

[2009.11.04] [「児童演劇」原稿]

児童演劇06年11月号原稿より

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以前にも書いたが、演出家や美術家と並んで、「ドラマツルグ」という役割が、
チェコの芝居づくりではとても重要だ。
たとえば次の新作には赤ずきんをやろう、とプロデューサが言い出したとする。
そのとき、ドラマツルグは、うちの劇団が、なぜ、今、どのようなスタイルで、
またどのようなねらいで作品を作るのか、場合によってはキャスティングや
宣伝方法まで含めて、責任をもって他のスタッフと討論して決定してゆく。

赤ずきんが迷い込む森は、彼女自身の心の中なのではないか、
いや、狼こそ森そのものだろう、ならば、狼も赤ずきんの一部だと
する設定はどうだろう、赤ずきんは自分自身の心の暗がりを通り抜けることによって、
大人の女性へと成長することになる。さてこれは現代社会に生きる少女たちにとって、
どんな意味があるのだろう?


舞台装置は少女の白いドレスを巨大化した図案、
それがトンネルのように開くとしたらどうだろう、
そのトンネルは狼の口のようにも見え、ときに閉じてしまう、というのはいかがか。
では肝心の役者たちはどんな位置づけにするか。
森の精? それでは陳腐だ。
木や葉っぱ、土くれといった森の「部品」ならば面白いかも。
いっそ、全員、狼ではどうか? 
いずれにしても少女は、彼女をとりまく社会環境に、
明るく、コケティッシュに挑んでゆく、そんなお話にしたい。
ならば音楽のテイストは? 前作のシンデレラとのつながりは? 
国外のフェスティヴァルでもグリムが多く演じられているが、それらとの差別化は?

ドラマツルグは脚本家を兼ねることもあるが、
基本的に上演と劇団活動に指針を与える役目だ。
必然性と枠組みとも言える。

だから、芝居づくりのみならず、フェスティヴァルにも、
イヴェントにも、すべての創作活動にドラマツルグが必要となる。

もしも、この役目がいないとどうなるだろうか?。

おそらく、プロデューサと演出家、または劇団代表が、
経済性と自分の思い入れのハザマで、妥協点を探して遺恨試合を
繰り広げることになる(大袈裟だ)。

ここまで読んで、いやそれは日本では劇団代表の仕事、演出家の仕事、
プロデューサの仕事、または芸術監督の仕事、と分担されておこなわれている、
と思われる方も多いだろう。説明がむずかしいのだが、ドラマツルグとは、
それらのハードとソフトづくりに一貫したストーリィ性を持たせる役目、と言える。
劇団や劇場が、その国の歴史の中で、ある固有のテイストを保ち、
他劇団と差別化しながらも、永く共存してゆくための、独自の「匂い」を作る役目、
どこまでも客観的なひとつの「目」だという感じがする。
説明がさらに抽象的になってしまって申し訳ない。

ぼくは、予算が保障され、スタッフも出演者もすばらしいのに、
ドラマツルグが馬鹿なばっかりに、無残に失敗した芝居や
フェスティヴァルをいくつか知っている。

差しさわりがあるので、具体名は挙げられないが、あるダンスの一分野に、
多くの社会主義国で、かなり手厚く保護された芸能の一ジャンルがある。
すべての旧東欧諸国が自由化された現在も、いくつかの国立芸術大学の中に
それは学科として存在する。
しかし、分野としては新しい方向性を強く打ち出せないまま、
かなりの速度で衰退している、と言わざるを得ない。

先日、その学科の教授たちが、学生たちとともに舞台に立ち
、デモンストレイション的なワンナイト・フェスティヴァルを開いた。
教授陣の古典的なテクニックに加え、何とか分野を外に開こうとする
学生たちの新しい肉体的挑戦が見られて、終盤までとても刺激的な構成だった。

しかし、最後の最後で、出演者全員がストロボライトの中に踊り出て、
コミカルに動き回り、通常の照明に戻ったときに皆で手をつないでカーテンコールする、
というとんでもないアナクロ・エンディングを見せて、
企画全体を台無しにしてしまったのである。

そこでぼくが感じたのは、かつては、ひとりひとりのベテラン・ダンサーが
ピンで観客席をいっぱいにできたはずなのだが、
今は学生も引き連れて舞台に立たなければならない現状。
そして、詩的でアヴァンギャルドな演技を見せたその学生たちが、
とても恥ずかしそうにそのエンディングに耐えている姿、だった。
これは明らかにドラマツルグの失敗である。
その芸能の時代性、未来に向けてどう変わって、何を訴えてゆける分野なのか、
その夜のフェスティヴァルの意図は、と熟考したときに、
たとえ学科長が提案したアイディアであっても、このエンディングはあり得ない、
と評価すべきなのがドラマツルグのはずなのだ。

つづく
「チェコの古典人形劇でも、ドラマツルグは重要」

2009.11.04 / 10:45

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コメント

エリサちゃん、
かきこみ、ありがとう!
沢は今、ここ。
http://chicagoweekly.net/2009/11/04/figure-theater-nori-sawa-blends-japanese-and-czech-puppetry/

ああ、自分で読んでもこんがらがるぐらい面倒なこと書いてますね。
でも、一度この「必然性」を知ってしまうと、もう元の安易な作品づくりに戻れなくなっちゃうんだ。
ぼくにドラマツルグを教えてくれたチェコの先生は、「でもな、ノリ、これを突き詰めたからといって、芝居が必ず面白くなる、というわけじゃないんだ。ただ、もう考えずには、いられないだろ」と言ってました。

ぼくにわかってるのは、このメソッド(作り方)を経験した上で、あらためて必然性にあまりこだわらずに作った芝居でも、知らなかったときのより、はるかに面白い、という事実です。

2009.11.09 / 22:53 | 投稿者 のりさわ

とても面白いお話で、じっくり読ませていただきました。
(最後の失敗例については、私の無知から具体的に想像できませんでしたが。。)

必然性と枠組み

9月のワークショップのときに「なぜ紙である必要があるのか」「なぜ風船である必要があるのか」と問われたことが印象に残っています。

それ以来、自分のパフォーマンスを考えるときも、まずは大枠で「なぜこのタイトルなのか」、そして「なぜこの流れなのか」「なぜこの作品なのか」と問うようになりました。
その問いは、沢さんのワークショップで得た宝物のひとつです!!(*^-^*)

他の人が考え得る範疇を遥かに超えた部分まで必然性を持たせたいです。

2009.11.08 / 22:24 | 投稿者 バルーンアーティストエリサ

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