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「桜の園人形劇場(アントン・チェホフ原作、桜の園より)」

[2006.01.18] [sawa 近況報告]

…きっかけは昨年、ぼくが勤めているプラハの大学で
学生たちと一緒にこの作品に取り組んだこと。
以前に読んで、「いったい何が面白いんだ?」と思っていた。
しかし、それが戯曲というものなのだろう、実際に役者が
舞台に立ち、声を出して稽古を始めたとき、その図抜けた
ユニークさに気づいた。

アントン・チェホフの甥であり、スタニスラフスキィとともに
演劇史に数々の業績を残した演出家マイケル・チェホフは、
独自の視点から作品の究極の目標、すなわちその舞台を
通して、観客に感じ取ってもらいたい最終的な感覚を
「超目標」と呼び、桜の園のそれについて「過去の最も
良いものを保護すること。それが醜悪な未来の建設を
準備する権力の斧の餌食にならぬように」である、と定義
している。


それは正しい。しかしアントンの「ドラマじゃない、コメディ
だと、何度云ったらわかってもらえるんだ」という手紙の
中の叫びはさらに重要だ。
前述したマイケルやスタニスラフスキィのモスクワ芸術座
でさえ、これを「ドラマ」と主張し、作者との合意に難航、
長い間悲劇的に演じ続けた。
大正時代、初めてこの作品に触れた日本人も「澄んだ
憂愁の空気」に感銘を受けた、と記録されている。

登場人物の誰もが、ひとつの時代が終わり、大きな我が家
が失われてゆくことを知りながら、それを止められない。
女主人のラネフスカヤは、トロフィモフに愛の赤裸々な力を
語りながら、自分の土地が売られてゆく現実は直視できず、
結局パリの愛人のもとへ流されるように戻ってゆく。
兄のガーエフは最初から勝てそうにもない競売で、やはり
あっさりと負け、それに泣き、とりあえずアンチョビを買って
家に帰る。
皮肉なことにアントンの時代にあっては真実、希望として
語りえたかもしれない娘のアーニャとトロフィモフの社会主義
への夢も、やはり崩れ落ちてしまった理想であることを
我々はすでに知っている。

時代も、人間も、すべてが中途半端で、どこか壊れている。
ひとりの人間が老いてゆく姿にも似て、不完全で、悲劇的だが、
滑稽だ。これを「滑稽だ」と感じ取る黒いユーモアこそ、
ロシアであり、スラヴであり、桜の園の底力だと思う。
それは舞台人形のようでもあるし、影絵のようでもある。

先日、近所の劇場に足を運んで、チェコの劇団による「桜の園」
を観た。素晴らしい出来で、何より全幕を通して、ずっと笑いが
止まらなかった。物語のクライマックス、桜の園を買い取った
ロパヒンの有名な勝利のモノログは、誤ってワーリャに杖で殴られ、
鼻血をだらだら流しながら語られる演出になっていた。
貧しい百姓の小せがれ、小突かれ、殴られながら成り上がった
ロパヒンは、最大の勝利の雄たけびも「鼻血を流しながら」
フガフガ叫ぶことになるのだ。

何か巨大な存在、皆がけっして変わらぬと信じている強い存在が
音を立てて崩れてゆくときの儚さとおかしさについて、その渦中に
ある者ではなく、すぐそばで苦しい思いをしつづけた小さな者が
より敏感に知っている場合がある。
「桜の園」を描くチェコ人の姿を見るたびにそれを思い出す。
それはちょうどロシア演劇界の王道にありながら、常に客観性と
ユーモアを失わなかったアントン・チェホフの強さによく似ている。

大きな流れの中で、どこへ行くのか分からない、何だか不完全で
滑稽な人物たちが、人形のように繰り広げる人間模様‥ぼくが
子どもの頃に愛した「ひょっこりひょうたん島」はとても「桜の園」に
似ている…

さて、これらはすべてノロマな駄馬の尻に火をつけるための
マッチ棒みたいなもの、創作前に思いつく念頭の目標であって、
それはちょうど年頭の目標みたいに次第に湿気て、忘れられて
ゆく運命にある。
原作どおりの上演は軽く2時間を越えるが、ぼくがお見せできる
のはおそらく20分か30分、ほんの一握りの上澄み、いくつかの
イメージに過ぎない。
舞台を観たあなたが「何だ、桜の園でもチェホフでもないじゃないか」
と怒っても、たいへん申し訳ないがどうすることもできない。
あらかじめ、ゴメンナサイ…

nori06g.jpg
FIRS. komornik(執事フィルス、「桜の園」より)

さわ

2006.01.18 / 20:04