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20代始めの頃
[2004.02.26] [sawa 近況報告]
20代始めの頃、札幌で人形芝居を作っていていつも疑問に思っていたことがあった。
このジャンルには造形美術的な要素があり、音楽があり、もちろん文芸的骨格もある、
というような総合芸術の条件を満たしているのに、
なぜかメジャーカルチャーにはなっていない。どうしてなんだろう。
当時、ぼくに想像できた理由は二つ。
江戸時代には街のゴシップや歴史上の感動ヒューマン・ドラマなんかが
「人形浄瑠璃」というメディアで取り上げられて大隆盛した。
おそらく観客はその時代の空気を劇場で共有しただろう。
近松も目の前の市井の人々のために脚本を書いている。
現代では同様の情報伝達機能をテレビジョンというメディアが肩代わりしてきたような気がする。
今、インタラクティヴ、つまりコミュニケーションが相互に可能であるような
より劇場的作用に目を留めるなら肩代わりしてゆくジャンルはネットかも知れない。
もちろん現代の劇場もその機能を何割かとどめている。
ただ残念ながらメディアとしての参加人数の対人口比が低くなっていることは否めないだろう。
つまりシステムは変わらずに残っているが、
機能が別のいくつかに分散、移行してしまった、ということ。
もう一つの理由は一度に見せることができる観客数の限界。
CDは百万人の人々に伝達され得る記録性を持っているが、
ライヴで小さな人形を同人数に見せるためには個人の一生以上の年月が必要となる。
その頃、T田さんという照明家が舞台づくりの基礎をいろいろと教えてくれていたのだが、
ある日酒を飲みながらこの疑問を問うたときに彼が答えてくれた内容が忘れられない。
「理屈はよくわからんが、人形劇と言うのは
人間の昼間の行動に対する夜の<夢>みたいな機能を持っているような気がするんだ。
それは生活に直接必要なものではないように見えるが、けっしてなくならない、
無理に消し去ろうとすると精神に異常をきたしてしまう、というような。
これからいろいろな文化が真昼の光にさらされたような、
あるいはそういう装いをまとって行くだろうが、
そのときに人間の心がバランスをとるために必要なものが人形とか人形劇なんじゃないだろうか。
命の影、って云えば良いのかなあ」
だから、カルチャーの王道に輝くような事態には残念ながらならないが、
人が人という形態を保っている限りジャンルとしてなくなることはない、と。
そう云えば大昔の中国には、夢を見せない、という拷問があって重罰だったと云う。
2004.02.26 / 19:28

