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"Portugalie"

[2008.12.07] [sawa 近況報告]

ちなみに写真と本文は関係なし。
沢の場合、多いパターンなので、許して。

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さて、この秋の話。
ブルノのJAMU で働いていたとき、ダンスや芝居を毎晩のように見た。
その中のひとつで、大学の新入生を中心としたスタッフ・キャストの編成に、
一人だけ渋いプロを配置した作品で、「ポルチュガーリエ」という舞台があった。

これが凄いのなんのって、凄かったよ。
演劇的リアリティのある演劇。
オリジナルの脚本はハンガリー人によるもの、と聞いた。
旧東欧の田舎町で、父親といっしょに居酒屋を切り盛りする若い娘が主人公で、
彼女を取り巻く村の人々や、街からやってきて、彼女と恋に落ちる若者など、
「田舎町の、ありがちなできごと」を軸にストーリーは展開してゆく。
また、他の人間にはわからないが、この娘には、ときおりクラシックな軍服に
身を包んだ謎の衛兵たちが、店にたむろしているのが見える。

この芝居、沢にとってどこがすばらしかったか、と言えば、とても大学生とは
思えない役者たちの演技力、そして、まったくハッピィエンドではない、
やりきれないくらいブッチギレのラスト。
けっきょく街の若者は去ってゆき、恋は実らない。これ自体は、よくあるひと夏の
思ひ出、やっぱ、結ばれないのね、という話なのだが、男女ふたりの体当たりの
演技がすごくて、えぇ、ホントにだめなのぉ、別離れるのぉ!?と泣きそうになった。
そして、一方で、彼女にずっと思いを寄せていた村の男は、狂って殺人を犯してしまう。
ある者は消え、ある者は残る。「村」という共同体が、あたたかく人々を包み込む、
などという幻想をきっぱりと拒絶して、終盤、ふたたび幻の衛兵たちに取り囲まれた
娘は、居酒屋のキッチンにある布きんを、力いっぱい流しに叩きつけて、厨房に去る。
これがラストシーンだ。

何がこんなに自分の胸を打つのか。
それは、たぶん、そこに現実があるから。
世の中に溢れている、安易で、お決まりの「希望に満ちた」エンディングが、
嘘くさくて、もうウンザリしているから。めぐまれない主人公が、挫折を乗りこえ、
恋人か友人に支えられながら、時間一杯のラストで拍手喝采を浴びる、
というワンパターンが、自分の実人生とあまりにもちがうことに、
とっくに気づいているから。
「芝居の中でぐらい、暖かくて、希望に満ちた世界を体験したい」なんて、
ほんとうは誰も思っていないから。
「希望」があるとしたら、布きんを、力いっぱい流しに叩きつけて、嗚咽しながら、
でも、未来を祈る、明日の献立を考える、そこからしか始まらない。

甘くて暖かい芝居や映画も良い。年に数本なら最高だ。
しかし、そのコピーが、しかもまがい物のコピーがこう多くては、食傷する。

生きていて、働いていて、自分がこんなにもツライのは、きっとあいつが悪い、
まわりが悪い、社会が悪い、運が悪い。
いや、本当は自分が悪い、自分の弱さが悪い、ということぐらいは、
誰でもとっくに知っている。
しかし、自分の「生」を投げ捨てて、死を選ぶ、などということもできない。
とすれば、小さな、情けないくらい小さな工夫を、毎日重ねて、生きてゆくしか
ないではないか。そこには拍手喝采などない。親身になってくれる友人だって、
いつもいるわけではない。映画のエピローグのように、翌日から急に仕事が
うまく回り出す、なんてバカな展開もあるわけない。それが現実、その「鏡」を
見据えることが、今、芝居に求められているリアリティではないだろうか。

ポルチュガーリエは希望を描かない芝居だった。
おそらく、創り手が、安易な希望は観客を失望させるだけだと、わかっているから。
でも、強い祈りがあった。明日から、なんとか、より良く生きたい、という強い願いが。
その先にきっと希望がある。

さわ

2008.12.07 / 16:46

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